鬼平犯科-鬼平楽-


[平蔵の部屋]
なんともはや

長谷川平蔵の本当
長谷川平蔵史と鬼平犯科帳史
長谷川平蔵の言葉
長谷川平蔵の舌







  本当の長谷川平蔵   

 長谷川平蔵信以は江戸時代、延亭2(1745)〜寛政7(1795)に火付盗賊改方長官として実在した人物です。

■長谷川家

長谷川家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷のながれをくんでいると言われる。名前は下河辺から次郎左衛門正宣の代で大和の国長谷川に住し、長谷川姓を名乗るに至る。のち、藤久カ正長の代になってから、駿河の国・田中に住み、太守・今川義元に仕える。義元が織田信長に倒れ、その時の長谷川家当主長谷川正長は、徳川家康の家来となった。長谷川正長は武田軍VS織田・徳川連合軍の長篠の戦において、討ち死、年37歳。長谷川正長の次男・伊兵衛宣次が平蔵の先祖にあたる。伊兵衛宣次から八代目当主が長谷川平蔵にあたるのである。その後の生い立ちは池波氏の鬼平犯科帳で大体つかめる。長谷川正長の次男から始まる5代目当主で信雄の長兄にあたる宣安が死に、子の修理(6代目)も死んで、三沢家にいた信雄が家に呼び戻され、7代目当主となるのである。故に平蔵が妾腹の子であった事も事実で、若い頃"本所の銕"として深川あたりを無頼浪人よろしく練り歩いていたのも本当の事のようです。

 

  

■火盗改メの長官長谷川平蔵

歴任の長官の中でも本物の長谷川平蔵の盗賊捕縛の活躍は目覚しく、剣の腕も確かだったようです。その無頼時代の顔もあって密偵も多く使っていたと言われます。旗本・長谷川信雄の子として赤坂に生まれ、後に鬼の平蔵となる。その一面乞食に施しを与えるなどの資料も残っており仏の平蔵としての顔も持っていた。有名なのは無宿人対策として石川島の人足寄場設置、神稲小僧や妖盗葵小僧、真刀小僧の逮捕などがある。

 

 

 

  

■江戸の随筆『わすれのこり』

「賞罰正しく、慈悲心深く、頓智の裁き多し。

人々今の大岡様と称し、本所の平蔵さまとして世にかくれなし」

 

 

 

長谷川平蔵の供養碑は                                      

東京都新宿区須賀町、日蓮宗・戒行寺にあります。