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[江戸時代の話]


鬼平こと、長谷川平蔵が生きた時代は
江戸中期(1746〜1795)にあたります。
こで長谷川平蔵の生きた江戸時代の
生活や武士についての豆知識を。

















[江戸の時間]

午前

干支時間:1干支(一刻)を2時間
1日を2時間ごとにくぎり午前零時から干支で子、牛・・・と続く。
1時間づつ表現する場合は上刻・下刻と、表しました。 (例:子の上刻=午前零時から1時を表す
この戦国時代から始まった干支での表現方に加わり江戸時代に入ると、 数呼び:2時間ごとに9つ8つ・・・ 午前零時を九つから数えはじめ、八つ、七つ・・・・四つとひとまわりして、午後12時からまた九つと始まる表現方。 これを"数呼び"という。その間に半と呼ぶ。九つ、九つ半、8つ、8つ半・・・ 上・中・下刻:2時間を40分ごとに3つにさらに細かい呼びかただと、2時間をさらに3つに分ける。 2時間が120分を40分づつに分けこれを上刻・中刻・下刻と呼ぶ。 (上刻○時00分〜40分・中刻○時40分〜80分・上刻△時80分〜00分) (例:子の上刻=午前0時から0時40分、辰の中刻の場合=午前8時40分から9時20分)さらに細かく :2時間を30分ごとに4つに干支と干支の2時間をさらに30分ごとに4つに分けて呼ぶ方。 子一つ(0時00分〜0時30分)、子二つ(0時30分〜1時00分)、子三つ(1時00分〜1時30分)、 子四つ(1時30分〜2時00分)となる。(例:申3つ時=17時00〜17時30分)

午後






[江戸のお金]


    銀貨 銭貨
大判(金貨) 10両
(通常は7両2分で取引きした)
   
小判(金貨) 1両 60匁 4000文
四貫文とも言う
二分判(金貨) 1両の2分の1 30匁 2000文
一分判(金貨) 1両の4分の1 15匁 1000文
二朱金(金貨) 1両の8分の1 7.5匁 500文
一朱金(金貨 1両の16分の1 3.8匁弱 250文
丁銀(銀貨) 43匁
(丁銀+豆板銀17匁=1両)
   
豆板銀(銀貨) 秤にかけて金や銭と交換    
五匁銀(銀貨) 5匁
(12個で銀60匁=1両)
   
一分銀(銀貨) 1両の4分の1    
二朱判銀(銀貨) 1両の8分の1    
一朱銀(銀貨) 1両の16分の1    
100文銭(銭貨) 1両の40分の1   10疋とも言う
10文銭(銭貨) 1両の400分の1   1疋とも言う
4文銭(銭貨) 1両の1000分の1    
1文銭(銭貨) 1両の4000分の1    

*1両の価値については、現代のお金で6〜7万円、75,000円、3万円、7,755円など諸説ある。 江戸時代と一言で行っても260年以上もあるので(1603年〜1867年)どの時点を 対象とするかでだいぶ変わってくると思う。池波氏の鬼平犯科帳では、1両6万で、15両あれば一家4人が1年を過ごせたといっています。


―余談の行―

 

駕籠代:池波正太郎編「鬼平犯科帳の世界」によると、

天保頃(1830〜43)の記録で、日本橋から吉原まで

金2朱、銭なら800文。速度をあげることもできるらしく、

その場合、3朱から1分ほど。

 

 

 

 

 


 

 

[江戸の重さ]

 

 

1貫(千匁) 約3.75kg
1匁(10分) 約3.75g
1分 約0.375g

 

[江戸の距離・長さ]

1里(36町) 約4km(3.9273)
1町(60間) 約109m
1間(6尺) 約1.82m
1尺(10寸) 約30.3cm
1寸(10分) 約3.03cm
1分 約3.03mm

 

 

余談:平蔵さんの粟田口国綱が2尺2寸9分余ですから、

約67cmです。

 

 

 

 

 


 

[江戸の面積]

 

 

1町(10反) 10,000u(3.025坪)
1反 1,000u

 

[江戸の量]

 

1石(10斗)

180g

1斗(10升)

18g

1升(10合)

1.8g

1合

0.18g

*1石=2.5俵&千合

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


[江戸の階級]

 

 

大名=

1万石以上

旗本、御家人=

1万石未満で将軍に謁見(御目見)を許されたものを旗本、

許されて居ないものを御家人といった。

*長谷川平蔵は旗本、岸井左馬之助や、与力・同心たちは御家人である。

 

 

 


 

平蔵さんの時代の 

[ 武士の給料] 

 

江戸時代は米が基本生活であり、ある意味で貨幣の役割をも果たしていた。

従って武士の給料は基本的に米の量を基準に支払われていました。

 

●種類

 

家禄: 先祖の功により、家に対してもらえた俸禄。基本給のようなもの。
職禄: 職務を果たす上で家禄の不足を補う俸禄。職務加算給のようなもの。
扶持米:

主として下級武士に蔵米や現金の他に与えられた。

一人扶持は、一日当男は5合、女は3合

(300俵3人扶持とは家族3人と言う事。例えば男2人女1人だと、3人扶持は実質13合。

1人5合女1人3合だったそうです。)

もちろん家来の人数も加算される。家族と家来の人数手当てのようなもの。

 

●支給の形

                                                                    ※御目見えとは将軍に直接拝謁できる者の事をいいます。

 

 

では武士の給料として支給される米はどのようにして支払われたのかです。

下記は支給方法の種類です。

 

知行取り(単位:石)

主として旗本に対する支給方法。

旗本(200石以上御目見え以上の者)は知行地を治める事を許され、

百姓付きの土地を領地として与えられている。

そこから直接年貢を取る事を許されるのである。

年貢の割合は四公六民を普通として、(時に五公五民)200石取りの場合200石の4割(80石)が自分の取り分、6割(120石)が農民の者と言う事になります。

実際に食べる分だけを現物納入させ、残りは現地で金に換させて金納させた。

蔵米取り(単位:俵)

御家人(御目見えを許されぬ者)に対する支給方法です。

玄米が直接支給され、2月に1/4、5月に1/4、10月に2/4と分けて支給された。(切米)

200俵取りの御家人だと石高に換算すると80石の取り分で、

200石取りの旗本と実際の手取り給料は変わらない。

現米取り 蔵米取りの一種。100石から3石まである。与力、同心に多い。
給金取り

現金を支給される者。24両3人扶持の御蔵奉行組頭から3両1人半扶持の御蔵奉行水揚之者まで。

扶持取り 蔵米取り以下に扶持米が付随する。

 


では平蔵のお給料を現在に換算してみます。

400石というと実際の取り分は160石。

それに家族が男3人女3人で

家来(家来は大体400石取りの旗本の屋敷だと最低でも10人以上。下女、門番など)

もいれて、20人扶持とします。

男扶持    1日5合×360日×10人=18石

女扶持    1日3合×360日×10人=10.8石

 

合計188.8石=472俵=26426kg

1石2.5俵として、米10kgが4000円とすると、

年間手取り約(推定ですよ)10572800円。

だいたい月88万円のお給料!?

家族、家来が20人以上いて、20人分の食事・衣類や、それに家来の給料

他に馬の飼育費で、手元に残るのは大体7両程だといいます。

役職でもらえるお金がないときついです。

得に平蔵さんは探索や、密偵にかけるお金などの他に

贈りもの、武器の手入れ、家の修理代などもあったでしょう。

さらに人足寄場の不足分など、生活は厳しかったようです。。

 

 



 

[ 江戸の処罰

を少し。

 

町奉行や火付盗賊改などが扱った犯罪者のうち、入れ墨や敲刑(たたき)などの

軽い刑罰で刑期を終え、引き取り手のないものや再犯の恐れのあるものを

寄場で取り扱った。

江戸時代の刑罰は重いものは死刑だった。

死刑にも、磔(はりつけ)、獄門などがあった。

その他は遠島、重追放と様々で、軽いものは敲という刑が一般的だった。

敲にも、百たたきと五十たたきがあった。さらに、百日手鎖、五十日手鎖もあった。窃盗犯の

場合、初犯は敲だが、再犯になると入墨。入墨が三度にわたると死刑になった。

 

 

×余談の行×

 

鬼平でよく登場する刑を少々。もっと知りたい場合は池波編の「鬼平犯科帳の世界」を参照。

 

追放

その土地から追い払われること。所払い・江戸十里四

方払い・軽追放・中追放・重追放と地域が拡大されていく

死罪

斬首後死骸をためし切りされたりし、財産没収される。

※(下手人という罰もあり、よんどころない事情で人殺しした場合などにおこなう斬首で、この刑とちがい死骸を下げ渡される。)

獄門

斬首後3日間獄門台に晒される恥辱刑。得に重罪は斬

首前に市中引き回しの属刑が付いた。

はりつけ

磔柱に縛りつけ槍で刺し殺し三日間晒し者になる。

最も重罪である。

火炙り

放火犯を柱に縛り焼殺し三日間晒した。

 

このうち下手人・死罪・獄門のための斬首は牢屋敷内で行い、

獄門・磔・火炙りは通行の多い江戸の入り口である千住小塚原と品川鈴ヶ森で行った

 

 

 


[ 人足寄場

 

 

人足寄場になったのは、石川島(現在の中央区佃一丁目)、隅田川の向こう側。面積約6千坪。

職業は、紙すき、鍛冶屋、大工、左官、篭作り、屋 根ふき、竹笠作り、彫刻、元結作り、

草履作り、縄細工で、そのなかから好きな仕事を教えた。

賃金は、働きのよい者と悪い者とでは差があり、作った品物の売上から二割を道具代

その他の経費として差し引き、残りの八割の三分の一は貯金させて、

三分の二は十日目ごとに本人に渡した。

労働時間は、朝の八時から午後の四時まで、時には残業もあった。

手に職のない者たちには炭づくりや蛤の殻を砕いて胡粉を作らせた。

また、貯金が一定額に達した者は模範囚として、釈放。

 

とにかく職業に精を出し、渡世の見込みが立てば手当てを与え、

赦免し、身元引受人に引き渡すというもので、これまでの”罪人は牢屋でお坐り”という通念と

まったく異なる幕府直営の新方式の発足を見たのである。

事実、平蔵が人足寄場に尽力している間は、

江戸の犯罪と無宿人は減り、治安回復に貢献したといわれる。



 


 

[江戸の生活

(池波正太郎編「鬼平犯科帳の世界」から少し)

 

 

役所や住所の表示

映画やテレビで良く見かける、火盗の役宅にあるような、

厚板の墨で書かれた"火付盗賊改方"などの、看板。

あれは本来なかったらしく、旗本屋敷や与力同心等の組屋敷にも一切表札は

掲げなかったらしい。

もちろん商家は看板を掲げていました。

江戸時代の町名

江戸時代の町名はその町に住む人の、職業、商売、

役職など、そのものずばりの命名が多かったようです。

 

例:鍛冶屋町、紺屋町、大江町、瓦町、細工町、鉄砲町/商

売では塩町、具足町/役職だと代官町、百人町(鉄砲組同心百

人の屋敷町:同心などは一組まとめて1つの町に長屋を並べて

家族と住んでいた)






[ 武士の名前

 

武士は諱(いみな)通称の二つの名前を持っていた。

さらに、官位で呼ばれる人もいる。

その他に幼名(元服までの呼び名)、戒名(僧がつける死後の名)などがあるのです。

ややこしいのでここでは長谷川平蔵宣以という名の形について。

 

長谷川平蔵信以(はせがわへいぞうのぶため)。

これは、平蔵は「通称」で、信以が「諱」にあたります。「諱(いみな)」は正式な名前ですが、「忌み名」とも書くらしく

本人が生きてる間は使われることはめったにないらしいです。

どうやら本当の名前を大事にした昔の人が軽がしく使うのを嫌ったためらしいです。

そのため大体は通称で呼ばれる事が多く、家系図や資料では長谷川信以と紹介されても

鬼平犯科帳の中での呼称はあはり”平蔵さん”なのです。






鬼平楽